あとりえ60









和 敬 静 寂・・・・・・・・・・・・・・茶と禅」 伊藤古鑑著 より





「和敬静寂」の四字を、茶道の本体としてものに処していけというので和、敬、清、寂の一字一字に深い意味がある。そして実に茶道ばかりでなく全て、この四字には幽玄なところがある。

*珠光は「謹啓清寂」といっていたのを、利休は「和敬清寂」として、
この4つの題目を茶道の本体となし、茶事の華美に流れることを
固く戒めたとのことである。

・・・・・は和合の和、調和の和、和楽の和であって、聖徳太子
の17条憲法の最初に(和を以って貴しと為す)と言われている精神
である。平和は日本国民の間に伝えられた国民性の根幹をなすも
ので、第一に挙げたものである。全てが平和に行くこと、調和が取れ
て、順序良く整っていること、和して互いに茶事を楽しむところにこの
和の意味があらわれている。

・・・・・は自己に対して慎み、他人に対して尊敬することである。
他人の人格を尊重するというのであるが、他人ばかりではない。
全ての事物に対しても同じことがいえる。茶室においても主客相和し、
相敬するばかりでなく、床の掛け物も、茶入れも茶碗も、みな、それぞ
れに敬意をもって相対することを忘れてはならない。
高僧の墨蹟や、貴人の賓客に対して敬するのはもちろんの事、いかな
る食器膳椀に至るまで、敬意を表して鄭重に取り扱うのがこの敬の精神
である。

・・・・・とは、清潔,清廉の義であって、物と心との清浄潔白をいいあら
わしたものである。全てのものを清浄にする。古い、けがれのあるものは
大の禁物である。露地の掃除から、茶室の掃除、新しい花、新しい茶、
新しい茶巾を用いるのである。茶入れと茶碗とは、寂びの上から、古雅な
ものを好むけれども、よく拭い、清浄にして使用する。心も清浄にする。
雑念を起こしてはならない。少しもわだかまりのない、すがすがしい心で茶事を
なすのである。目には、露地の清楚な風致を眺め、茶室に入れば、床に掛け
られた軸物、花入れに生けられた花のきれいな風情を見る。耳には、つくばいに
流れる筧の音を聞き、茶室に入れば、釜の沸く音の松風に通うのを聴く。
鼻には名香のにおいをかぎ、舌には、茶菓の妙を味わい、身には、いろいろの
道具に触れて幽玄の触感に満足し,意には、清浄無垢の仙境に遊ぶ。これを
茶事の六根清浄と言い、また茶禅同一味の心境といえる。

・・・・・とは寂静、閑寂の義であって、茶が「寂びの芸術」
として大成しているのも、この寂の一字にあるからであるこの寂には深い意味がある。涅槃寂静といい、空寂、寂滅、寂滅為楽などといって少しもけがれがない、清浄無垢、真空無相のところで、大乗仏教の根本思想といわれる「空」の意味であり、禅の公案として有名な趙州の「無」もこれをいうので、禅の真髄ともなり、茶道の真骨頂も、この寂の一字に帰結するといっても過言ではない。
清も寂もともに宗教的な意味が深く、これは本当に法喜禅悦を得た人でなくては、その真意を解することはできない。

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茶道とは

「茶と禅」 伊藤古鑑著 より




茶道といってもその奥義に達するには、10年20年の修業を要することであろう。
ただ飲むということでなしに、その術、その法、その道の三段階を経て、奥義に達することは、容易なことではない。けれども、その法も知らずして、その術のところに、まごまごしているのが一般人である。だからその奥義に達するのは普通の人では、まず不可能のことといってよい。

薄茶、濃茶の点て方飲みかたの稽古、茶席の道具組み、茶事>>朝茶事・昼茶事・夜茶事等懐石料理も一通りは必要、そのほか露地のあり方など一人前の茶人になるまでには、容易なことではない。それらと茶人の行住坐臥がぴったりと一つにならなければ法に通じたとはいえないのである。
法に通じたというのでは、まだ足りない。法に通じたというのは、ただ物を知ったというのみである。「物知り」ではなくして、更に茶道の奥義を窮めて、その茶事と一体になる工夫を自ら苦心し、そこから本当の茶事を悟りとることをいうのである。
これは心の問題である。
禅で言う、「純一無雑の三昧境」)>>程朱のいわゆる「主一無敵の心」といって、ひとつのことに心を集中しほかの所には心を止めず、わき目をふらずに余念を交えないこと。<<
この三昧境に入ることを第一の心得として、そこから深く禅味を悟り、また茶味も、本当に悟って、茶禅同一味の心境になり、茶道の和敬静寂の精神を会得して、わずか四畳半の茶室に坐しながら、
深山幽谷にある思いをし、絶えず聞こえる釜の湯の煮える音〜その音を松風と聞きなして、心を大自然の中に運び,小さなる「われ」が大なる「われ」に拡大されて、そこに天地一如の妙境を切り開く、これが茶道の三昧法悦境であって、禅の境界と完全に一致するのも、ここの点をさしていう。
しかも、ここから更に、その行住坐臥、一挙手一投足まで、和敬静寂の精神になって、全てに私心を去り,おのれを空しうして、他と和らいだ心で相会し、互いに敬うこと、これを仏法では「和敬」(わきょう)といい、六和経として説明し、僧のことを「和合衆」(わごうしゅ)とも呼んでいる。また心の清いこと、利害の心を交えないこと、寂といって、心を落ち着けて不動ならしめること、これを禅では「寂静無為」(じゃくじょうむい)といい、造作造業(ぞうさぞうごう)の思いのないことは、とくに臨済禅のやかましく説くところである。閑静枯淡な禅味、知足安分の生活、これが茶、禅、共に相通ずる三昧法悦境であって、ここに達するのが、茶人の歩むべき道であると信ずる。


**露地とは************************************************

**数寄屋に配された庭園をとくに露地といい、それは門内庭上の通路のことである。
**露地はだいたい内露地、外露地の二つに区分されるのが通例であるが、その配石、植え込みは**自然の情景を移したように飾りのない素朴さを盛り上げ、茶室に通じる路の限界を超えない
**ことが第一義とされている。一般には外露地にはあまり景色を持たせず清浄感をただよわせ、
**内露地に入ってからは少し幽玄、侘び寂の趣を強めるのが常道とされている。
**<<<茶道辞典より>>>*************************************


**行住坐臥=ぎょうじゅうざが とは*****************************

**(仏)行くことと止ることと坐ることと臥すこと。
**戒律にかなった日常の起居動作を言う。転じて日常。ふだん。)
**<<<広辞苑より>>>**************************************

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