喫茶文化と日本人 ・・・2006・6月15日日経新聞(夕刊)より

熊倉功夫さんに聞く

茶の湯は不足の美学

「普遍的価値」は傲慢



近代のストレス社会が茶を世界に広めた」

そもそも人類にとって茶の魅力はカフェイン.心を鎮め研ぎ澄ましていく効能を持つこの飲料
は大航海時代を経て18,19世紀に世界に広がる。その裏にあったのが近代化によるストレス社会の到来なんです。「産業革命は人々を都市に集め、経済は大きく発展したがストレスの負荷も高めた。 これを癒すため好んで口にしたのが茶。のどが乾いたら水を、心が渇いたらお茶をというキャッチコピーどうりのことが起きたんです」
日本の古語で「呑む」と言う言葉には祈る意味がある。薬も酒もタバコも「のむ」。
飲むことで精神的に違う世界に移行する。昨今、都会で茶道を習うサラリーマンが増えているのは、ストレス社会の反映かもしれない。


「中世の美意識が茶の湯を育て、桃山期の権力者が表舞台に引き出した」

では、日本独自の茶の湯文化はどのようにして生まれたのか。
本格的に広がるのは僧の栄西が緑茶を持ち帰った鎌倉期。その後、庶民が楽しむ煎じちゃ、官能的遊びの世界で楽しむ茶、武士などが中国渡来の器など唐物とあわせて楽しむ茶が普及した。
「この重層構造の中で、革新的な喫茶文化として出てきたのが茶の湯。背景にあったのが中世の美意識です」。それは「人間はそもそも不足の存在」との意識だという。こうこうと輝く満月よりも雲間に隠れる月を美しいとおもい、まんかいのさくらよりもちるさくらにあわれをかんじる。
「中国伝来の唐物は完全、円満でないと価値が無いが、日本人の美意識では完成されたものはむしろ面白くない。不足はあっても自分の心にしみじみと伝わるものに暖かみを感じる。これを追求したのが侘び茶の世界で、境の町人から武士にひろがった」。

しかし、茶の湯は桃山期に権力者と結びつく。「西洋の権力が都市の中心に位置し人々に見せることで力を誇示するのに対して、日本の権威は奥の院に隠れる。西洋では見せるためのきらびやかな宝石文化が育ったが、日本にはない。西洋の流行が上から下に流れるのに対し、日本は遊郭など下からの流れなんです」
「これが例外的に破れたのが南北朝と桃山、文明開化の変革期。桃山時代に信長や秀吉は茶の湯を政治的に利用し、自分の権力を見せる仕掛けとした。茶の湯が唯一政治と結びついた時代だが、これによって日本を代表する文化の座を獲得したともいえる」


茶の湯は大いなるオタク文化。でも、普遍の美があるなんて西洋的傲慢
ではないか

茶碗の縁の反り方一つで法外な価格がつく。究極のオタクの世界。「デモね、そもそも普遍的な美があるなんていうのは西洋的傲慢かもしれない。いい物は言いなんて本当にいえるのか。結局は好き嫌いに行き着くのではないか。その時、茶の湯で出てきたのが 「「OO好み」」の世界なんです」。
家元のだれそれが好んだ趣向、形。それをよしとする価値観。「現代の日本人のブランド好きに通じるかもしれません」
もう一つの評価軸が、モノについている物語だ。その茶碗や茶杓がだれの手を通ってどんな物語を紡いできたか。「名物、縁起の文化です。茶の湯は日本を代表する生活文化であると同時に、日本人の精神性を凝縮している」
実は、明治時代に益田孝(鈍翁)、原富太郎(三渓)など「数奇者」と呼ばれた実業家が居る。「彼らに共通するのは文明開化の嵐の中で、日本人のアイデンティティーを守らなければと言う危機感」。美術品や工芸品の海外流出を前に、いいと思った品を手当たりしだいにあつめた。「でも美術工芸品は茶の湯で使うために作られている。いつの間にか茶の世界に入っていったんです」
茶道の素養など全く無く、茶杓で羊羹を切ったエピソードが残る鈍翁は茶の湯を通じて日本文化のパトロンに成長していく。
今の財界人にそれだけの見識のある人がどのくらいいるでしょうか」。数十億円で西洋の絵画を買っても世界のマーケットで値がつかない茶碗に大枚ははたかない。
「経済優先なんですかねえ。IT長者で自家用機を乗り回すのもいいけれど、日本文化への関心も持ってほしい。そうすると本物の国際人になると思うんです」。
と熊倉さんは結んでいる








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