日経新聞
夕&Eyeより
教える人
陶芸家>>>>> さかいだ・かきえもん=1934年生まれ。58年多摩美術大日本画科卒。82年、14代柿右衛門を襲名。乳白色の素地に赤絵を描く伝統ある白磁様式の色絵職人、作家として活躍。99年、九州産業大教授に就任。2001年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。06年、日本工芸会副理事長。
写真左(11.24.2006 ) 中(12.24.2006) 右(12.1.2006)
教える人陶芸家
酒井田 柿右衛門(上)
「きれい」と「美しい」の差(2006・11・24)
九州産業大・芸術学部
職人として生きてきた自分に大学教授が務まるか、はなはだ疑問であった。九州産業大学の学長さんやら総務の方やらが何度も足を運んでくれたが、「そこらでこそこそやっている職人が何の役にもたたんじゃないですか」と断っていた。それでも、九州に残る工芸の伝統と技術を伝えたいという大学の熱意にほだされ、「そこまで言うのなら」とお引き受けした。
いろんな分野での若手の作家が増えている。伝統を後世に伝える人が出てくるのはいいことだが、最低限、知っておかねばならないことがある。学生には常日頃、それを教えている。
陶芸というと、ろくろを回してできたものを窯で焼いてということを想像するだろうが、何を作りたいかがはっきりしていなければ、当然のこととして作れはしない。「まずはデッサンをやれ」といっている。花や木や、目の前にあるものをきちっと正確に写せるデッサン力、物づくりはこれに尽きる。「とにかく紙と鉛筆だけはポケットに入れておけ」と口酸っぱく言っているので学生諸君は耳にたこができているんじゃないか。「美術学校じゃないんですよ」といいたそうな顔をしている。でも最近は美術の学校でもそういう基礎的なことをやらないところもある。
ネクタイ一本にしても、デッサンの力がない人はとんでもないものを下げている。美意識というのは普段の生活で非常に役に立つわけだから、まずはデッサン、つまりはスケッチの力が大切だ。
次に言うのが原材料。自然の石を砕いて混ぜて土をこしらえるのだが、当然ながら石にはさまざまな鉱物が含まれている。銅、鉛、鉄、マンガン。白の磁器の場合、たとえば石に含まれる硫酸鉄や第二硫化鉄を取り除くことが必要。でも変な薬品を使うとほかの含有物まで取り去られてしまう。現代は不純物が混ざっていないものがいいとされるが、日本の工芸ではちょっと違う。不純物といえば聞こえは悪いが、これは大変な自然の恵み。何万年、何億年と培われた自然の仲間が持っている宝物は、作品になってもどこかに残したい。人間が見てなんとなく快感を覚えるというのはそういうことだと思う。人様が見て、手仕事の確かさや職人の思いをかいま見られるのが日本の工芸の神髄。それを「わび」とか「さび」とかいろんな言葉で表現するが、そういうもののわかる、あるいは作れる民族というのは日本人だけかもしれない。
科学的な処理をした材料を使った作品はきれいだ。だが、きれいでしかない。不純物が混ざった作品はきれいでないかもしれないが、美しい。味である。深みである。「きれい」と「美しい」は結構違う。それが日本の美意識。なぜ骨董品が高いのか。ただ古いからではない。土の味、上薬の表情、絵の具の深みが見えるからではないか。若い人たちにはそういうものの見方
なり感じ方を大切にしろよ、と言っている。
(中)
デッサン漬けの日々(2006・12・1)
米のとぎ汁を指す有田の方言「にごし」から、うちの窯の白磁は「濁手(にごしで)」と呼ばれる。この乳白色を美しく見せるため作品では余白を大事にするが、白だから何も書いてないとは限らない。枝一本、花一輪描いてあったのを消したとして、なおそこに存在する、重さとして感じられるデザインにするのが大事。ただ取り去って余白にすればいいというのでは軽々しいも
のになる。
中国風の要素が残る古伊万里は、主に器全体に絵をはめ込んだ様式で輸出品として有田で大量に作られたが、西洋の「バロック」から「ロココ」へと移り行く中で余白を十分に残した柿右衛門のアンバランスの美しさがロココに通じる美として西欧に受け入れられたのだと思う。余白は「間」ともいえる。古くから日本人の生活には間の美しさがある。その辺を勉強しろよと
言うと、学生は「よく分かりませんが、分かりました」。「五十か六十になったら分かる」と言うと「それまではどうしたらいいですか」。やり取りが面白い。
若い頃から絵を描くのは好きだったが、運動好きでもあり、佐賀の県立伊万里高校では陸上部に入った。とこらが、なぜか美術部の先生に目をつけられて絵をやることに。
走っていると 「デッサンやるぞ」と迎えに来る。練習を切り上げデッサン室にこもり、帰るのは夜遅く。しぶしぶやっていたが、十二代柿右衛門である祖父が「習わせてやってくれ」と先生に頼んでいたことは後で知った。
先生には日本画の絵の具の溶き方や選び方など、普通の授業ではやらないいろんなことを習った。八十を過ぎてなお元気で描いているが、いまだに頭が上がらない。
多摩美術大学の日本画科では四年間、ひたすらデッサンをやった。「絵を描いて展覧会なんぞに出すようなら明日にも学校やめろ」「一人前のつもりで絵なんか描けるわけない。学生のくせして」。先生の言うことは最もだった。基礎があって始めて個性が出せる。学校は基礎を教えるところ。石膏とヌードを題材に描きまくった。学生時代は焼き物に興味が持てず距離を置いていたが、卒業となればいよいよ真剣に向き合わねばならなくなる。大学を出て一年ほど友達の家を転々としたが、仕送りが尽きて帰る羽目に。祖父、十三代の父との家族会議。「お前に絵の具を全部やってもらう」との十二代さんの一言でついに陶芸の世界に足を踏み入れることになった。
いざ始めてみると、当時は科学的に処理した絵の具が出だした頃で、いい色が出なかった。来る日も来る日も調合を変えて焼いては理想の色を追い求めた。この時大学ノートに残した記録が今となっては一番役に立っている。若い頃のデッサン漬けもそう。やはりものづくりには何よりスケッチと、時間ができれば野山に出掛けている。
(下)
残したい 日本的な物 (2006・12・8)
ドイツの高級ショッキ、マイセン。有田などの東洋磁器に習って生み出されたが、マイセンに学ぶところは多い。職人は日本の徒弟制度のようなシステムで鍛え上げられる。ゲルマン魂が息づいているのか、スパルタ教育だ。研究熱心な点では、はっきり言って日本の焼き物はマイセンに負けている。美意識が違うからつぶしあうことはないが、勉強に取り組む態度、古いものへの思いは向こうが強い。ただ、物を作る人間は国境を越え、どこかでつながっている。マイセンの職人とも楽しく会話ができる。「日本の焼き物素晴らしいですね」。そんな言葉がよく出る。海外の日本を見る目は確かだ。イギリスや、ドイツ、アメリカ、いたるところで柿右衛門様式や古伊万里を見かける。海外の主な博物館や資料館には有田の古い窯跡の破片まである。オランダ貿易で輸出された日本の芸術は海外でしっかりと根を張っている。翻って日本はどうか。私はこの国の伝統文化の行く末に一抹の不安を抱いている。終戦後の世相として、陶芸界会では展覧会での入賞をめざす流れがいつしかできあがった。「展覧会文化」といっていいだろう。我々もいろんな先生に「出せ」といわれ、日本工芸会の伝統工芸展などに出すようになった。だが、よく考えてみたい。入選し入賞すれば一人前と扱われる風潮が果たしていいのか。
作家が大変多い時代だ。作家とは自分の世界を作る仕事。現代は個性が尊重されるが、基礎の裏打ちのない個性が多い気がしてならない。たまに突然変異で面白い作品が出るが、技術がないから自分の思いを表現できない。技術を覚える前にひとかどの芸術家、作家として活動するから伝統が外れたようなことになる。
一方で個性を殺すことを求められるのが職人だ。一生かけて体で技術を覚え与えられた仕事を完璧にこなす。感性や個性はむしろ邪魔になる。ところが大工さんでもトタン屋やさんでも日本の手仕事の職人に日が当たらない時代が来てしまった。なんでも化学製品でまかなえるようになり、職人が必要ではなくなった。物を一つ作るには何種類もの職人の手が必要だ。日本的なものはしっかりと残さなければいかん。ココは日本なのだ。そういう意味でも私どもは非常に大事な仕事をおおせつかっている。それで大学というものが気になって、日本の工芸の明日を支える若いもんに伝えなければ、と思っている。
九州産業大では文部科学省のCOE プログラムの認定を受け、原材料の研究や世界中に輸出され各国に現存する初期柿右衛門様式の作品の追跡をしている。その関係で今、イギリスを訪れている。かつての貿易状況と併せ、研究成果を記録に残そうと考えているが、それも学生諸君の勉強の励みにしてほしいからだ。
どうか皆さん、本物を見る目を養い、ともに本物を育てていってほしい。一人の職人の思いである。