歴代の家元
- 始祖 利休宗易(りきゅう そうえき)
大永二年(1522年)堺に生まれ、抛筌斎(ほうせんさい)、利休居士とも号す、天正19年(1591年)京都一条葭(よし)屋町の屋敷で自刃。享年七十歳。
裏千家宗家では、これを追福して、毎年三月二十八日利休忌を催す。
- 利休居士の正嗣、母は宗恩。千家を継いだが年ならずして京都西山の西芳寺に隠居し、宗旦に家督を譲る。
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- 幼くして大徳寺の春屋和尚に禅を学び、茶禅一味を提唱し、枯淡な茶道生活を送り、当時一流の文化人として、多くの知名人と交流が深かった。
- 正保五年(1648年)裏表両千家を分立。
- 万治元年(1655年)八十一歳で没す。
- 宗家では毎年十一月十九日宗旦忌を催す。
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- (利休の孫、少庵の息子である。利休自刃の時は14歳で大徳寺春屋宗園のもとに喝食をしていたので難を逃れたが、父
- 少庵は蒲生家に預けられ、家、道具類も一時召し上げられた。のち徳川家康らの尽力で、少庵も許され本法寺前に居を賜わったが、少庵はまもなく西方寺に隠退したので、宗旦その後を受けて千家を継いだ。晩年二男宗守は武者小路に一家を構え、三男宗左は不審庵をゆずりうけ、、四男宗室は宗旦とともに今日庵に移った。かくて三千家の基が作られたのである。
- ー井口海仙編の「茶道用語集」よりー)
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- 臘月庵とも号す。加賀の前田利常に茶道奉行として仕え、北陸に茶道繁栄の種子をまく。京都から楽一入の弟子長左衛門を連れてきて大樋焼き(おおひやき)を始めさせる。また釜師宮崎寒雉に茶の湯がまを鋳造させたりして、この地方の工芸界にもおおきな足跡を残す。貞亨四年(1687年)京都に戻る。
- 元禄十年(1697年)七十六歳没。
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- 五世 常叟宗安(じょうそうそうあん)
加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。 宝永元年(1704年) 三十二歳没。
- 加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。
- 六閑斎とも号する。父常叟が若くして没したので、十一歳で家を継いだ。
- 享保十一年(1726年)三十三歳没
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- 加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。
- 表千家原叟の次男。裏千家を継承したが、享保十八年(1733年)二十五歳没。
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- 加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。
- 千家中興の祖といわれる。七世宗乾の弟で裏千家八世を継ぐ。
- 「碧巌録」 の 「七事随身」 の語をとって「七事式」 を制定し、また多くの好み物を生み、「浜之真砂」 の著書もある。
- 弟子も多く、狩野宗朴、速水流の祖速水宗達などがいる。
- 明和八年(1771年)五十三歳で没。
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- 加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。
- 不見斎とも号す。次男は石牛斎または大翁宗玄、分家したがよう逝 。三男宗什は武者小路千家を継ぎ、武者小路千家九代好々斎宗守となる。
- 享和元年(1801ねん)五十六歳没。
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- 加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。
- 不見斎の長男。 夫人は松室宗江といい、なかなかの茶人で継嗣の玄々斎の茶道教育にはこの夫人の力が多く、事跡も多い。認徳斎には男子がなく、 一女まち子があり、彼女も玄華斎あるいは崋山宗伯と号する茶人であった。
- 文政九年(1826ねん)五十七歳没。
- 加賀藩前田家及び伊予藩久松家に致仕。
- 三河国奥殿領主松平縫殿守の子で幼児にして千家へ認得斎の養継嗣として入る。
- 利休居士二百五十回忌を迎えるにあたり、利休居士,宗旦以来の今日庵、又隠、寒雲亭の茶室に加うるに、咄々斎、大炉の間、抛筌斎、溜精軒などの茶室を増築、表門、玄関、その他を今日の形に修築整備する。
- 「今日庵年中行事」 「茶道送迎貴」 「今日庵雑記」 「喫茶敲門瓦子」 「反古普須磨」などの多数の手記、口述、記録を残し、立礼式をはじめ茶箱等の点前の創作に努力し、各流の代表として明治維新には政府に茶道建白書を提出するなど、茶道の興隆を新時代にはかり、茶道中興の祖ともいわれる人であった。好み物にもその種類、点数とも多い。
- 一如斎という男子があったが十七歳で夭逝したので娘の猶鹿子に京都の名家角倉家の次男を婿養子として迎える。又みょう斎(ゆうみょうさい)玄室である。
- 玄々斎は不忘、虚白斎、寒雲などとも号す。明治十年(1877年)六十六歳で没。
- 「ミョウ」という字は・・・玄という字のつくりの部分に少とかきミョウと読むようです。
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- 明治四年、二十歳で猶鹿子の婿となる。
- 夫人猶鹿子は真精院と号し、特に婦人に茶道を普及することに努力した。
- 又ミョウ斎は大正六年(1917年)六十五歳で没す。
- 鉄中、対流などの号がある。
- 又みょう斎(ゆうみょうさい)の隠居に従い、十八歳で家を継ぐ。明治維新後、伝統的な文化財がいずれも衰亡に瀕したなかで、その保持と挽回とに生涯をつくし、近代茶道界の先駆的な役割を果たす。
- 大正十三年五十三歳で没す。
- 夫人の黙居庵宗綱は円能斎を助けて、ともに茶道界につくしたが、翌年逝去、五十五歳。
- 宗家では、毎年七月精中円能斎忌が催されている。
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- 明治二十六年東京に生まれる。京都同志社大学卒業。大正十二年円能斎から家督譲与披露、翌年円能斎急逝。大正十四年、大徳寺伝衣老師について得度。
- 大徳寺に貞明皇太后を迎えて献茶奉仕。以来皇族殿下や外国賓客にもしばしば献茶奉仕し、昭和二十八年には桂離宮で皇太子殿下に献茶奉仕をした。
- 伊勢神宮をはじめ、全国各地の寺院、神社に献茶、あるいは供茶を行い。その面でも茶道界に新生面を開いた。
- 戦中戦後における日本文化の荒廃期をよくのりこえ、茶道隆盛につくすところ大であり、全茶道界の長老として、指導的立場にあって活躍した。
- 好みの物も数多く、桐蔭席、甘雨亭、玉秀庵、瑞新軒、望雲席、滴翠庵、星光庵,幸日軒、その他好みの茶室も多い。また唱和式の点前を創案した。
- 海外茶道普及にも着目、当代鵬雲斎家元を南北アメリカ、ヨーロッパなどに派し、その実を上げ、自らもヨーロッパおよび北アメリカ視察旅行をした。
- 昭和四年桐蔭会を組成。昭和十四年、裏千家茶道統一と今後の進展を目指して、「淡交会」を結成する。
- 昭和二十四年に財団法人「今日庵」を創設して宗家内部の体勢を整え、昭和三十一年には裏千家茶道会館、三十二年に東京道場を建設。多年の茶道振興と文化興隆に寄与した功により、三十二年二月に紺綬褒章を受け、同
十一月には紫綬褒章をうける。昭和三十五年に文化功労者として嘉代子夫人と宮中の招宴に加えられた。
- また文化面でも多彩な活動をした人で、円能斎を助けて「茶道月報」を創刊、戦後はこれを発展させて、当代鵬雲斎家元に雑誌「淡交」を発刊させた。又二科会会員として絵筆もとった。また茶道古典全集(淡交社刊)を編さんし、全巻を刊行した。
- 初めてラジオで献茶風景を放送したのも、初めて人工衛星による日米テレビ宇宙中継に出演したのも淡々斎である。
- 豊公北野大茶湯三百五十年茶会、利休居士三百五十年遠忌茶会、仙叟二百五十年忌茶会、元伯宗旦三百回忌茶会、少庵宗淳三百五十年忌茶会などを催した。昭和三十九年九月七日、北海道に出張中阿寒湖畔の宿で急逝。法名無限斎碩そう宗室居士。正四位勲三等旭日中綬章をうける。
- 宗家では円能斎と合わせて無限忌を行っている。
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- 大正十二年京都に生まれる。
- 昭和十八年学徒出陣飛行隊入隊。海軍予備学生となり、敗戦とともに帰還。
- 昭和二十一年同志社大学法学部卒業。のちハワイ大学で美学専攻。大徳寺管長瑞厳老師により得度受戒。鵬雲斎玄秀宗興居士と号す。
- 昭和ニ十六年ハワイに初の茶道普及におもむいて以来、国の文化使節として、青年会議所会頭として,あるいはコロンビア大学、ハワイ大学、ロックフェラー財団などの講師として、南北アメリカ、ヨーロッパ、アジア各地に二十数回にわたって茶道行脚、パリやニューヨーク、ブラジルなどに茶室を送り、世界各地に十数ヵ所の茶道と日本文化を紹介する裏千家支部を開き、今日にいたる。
- 昭和二十九年吉川英治夫妻の媒酌で塚本定右衛門三女登三子と結婚。
- 昭和三十四年、各局のテレビ番組にお茶をのせることに先鞭をつけて茶道の普及を図る。
- 昭和三十九年九月七日、淡々斎急逝。十九日大徳寺で本葬、宗家利休祖堂において十五世世襲宣誓、襲名する。
- 昭和四十二年、天皇、皇后両陛下ご招待の「菊の宴」に出席。嘉代子母堂が茶道を通じて日本文化に寄与した功績に対して藍綬褒章を受ける。
- 昭和四十三年、京都学園大学教授に就任
著者 千 宗室
「裏千家茶道のおしえ」より
NHK放送出版協会 発行
昭和四十三年十月二十日 一刷発行
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