あとりえ60
利休百首の本の右ページに綾村坦園の書が写真のように百首書いてあります。
利休百首の解説ページ ・・(1)
- その道に入らんと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ
- 利休百首のへき頭に、この歌が出てくる。道歌百種の序論とでも言うべき歌だが、茶道全般を学ぶ者の心構えを、まず教えているのである。
何事でも、その道に入り、その道を学ばんとするには、まず志を立てねばならない。
志を立てずに、その道に入るのは、目的なしに道を歩き、目的なしに旅を続けるようなものである。
このごろはお茶が流行するから、自分の娘にも習わしておこうと、本人が、お茶を好きであろうが、なかろうが、おかまいなしに、稽古に通わせている親がずいぶんあるようである。
芸道は、自ら進んで習うようでなければ、上達しないものである。自発的に、習ってみようという気持ちがあれば、それはその人自身の心に、もうすでに立派な師匠ができているのである。これは茶道だけではない。学問にしても、他の芸道にしても、その道に入るに当たり、よくよく味わうべき言葉である。
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- 習いつつ見てこそ習へ習はずに よしあしいふは愚かなりけり
- 食わず嫌いということがある。茶道を批判する人の中には、この食わず嫌いが多いようである。
文学評論家、劇評家などは、自分の思うところを、時には対象となった相手を、再起不能におとしいれるような峻烈な批評をする。しかし批評はできても、自分でじっさいにやってみると、な
かなかできるものではない。私は年に1回、素人歌舞伎に出演するのだが、その出演者の中に有名な劇評家がいる。稽古になると、日頃批評の相手にしている俳優から、いろいろ教えてもらうのだが、そのときばかりは、汗をびっしょりかいている。そして「自分では、こうだとわかっているのだが、手足が思うように動いてくれない」といいながら頭をかくのである。批評するなら、まずその対象となるものに、自らがはいりこまなければ、本当の批評はできない。口先だけの批評では人が納得してくれないだろう。
- はぢをすて人に物とひ習ふべし これぞ上手の基なりける
昔の言葉に 「知らぬ事は知りたる人に問うを恥じず」 というのがある。知らぬことは恥かしいと思わず、師匠や先輩に質問すればよい。
「ここのところがわからない。次の稽古日には、先生に聞いてみよう」 とおもっていながら、さて師匠の前に出ると、「このくらいのことがわからないのか、と笑われないだろうか。他の稽古の人たちもおられることだし」
と、口まで出かけていた質問も、そのまま聞かずにほっておく。
なるほど、恥かしいと思うかもしれない。しかし機会を逃がしてしまうと、知りたいことも、そのままになってしまう。これは大きな損失である。その反対に一時の恥ずかしささえ忍べば、それが一生の得になるのである。
このことと逆に、知ったかぶりの顔をしている人がある。
中には、知っているような顔をして、他人から探り聞きをしようとする人があるが、これはもっとも卑しい心である。
- 上手にはすきと器用と功積むと この三つそろふ人ぞ能くしる
何事でも、名人上手になるために必要な条件が三つある。
第一に、好きでなくてはならない。第二に、器用でなくてはならない。第三に、倦まざる修業である。
好きとか嫌いとか言うのは、自分勝手なことで、嫌いなものでも、慣れてくると、これを好むようになり、また好きなことでも、ふとした動機のために、嫌いになることがあるが昔から
「好きこそ物の上手なりけれ」
という言葉があるように、人にすすめられたから、いやいや習うとか、義務的に学ぶとか言うようでは、いつまでたっても上手になれない。
また、器用不器用は、人各々の天性であるから、仕方がないようだが、これも慣れてくると、不器用な人は不器用なりに、器用な人に見られない味が出てくるものだから、決して失望することは無い。功を積むということは、芸道修業上、一番大切なことである。短気では、物事は上達しない。
- 点前には弱みをすててただ強く されど風俗いやしきを去れ
- 点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ
軽いものを持つときは、重いものを持つ気持ちで、重いものを扱う時は、軽いものをあつかうきもちをわすれないようにする。軽いものを軽く持つから、かえってあやまちが起こる。重い物を重たそうに持つから、武骨に見えるのである。世阿弥の「花伝書」に能能ヨロズ用心をモツベキコト、として
怒レル風体二セントキハ、柔ラカナル心ヲ忘ルベカラズ、コレイカニ怒ルトモ、荒カルマジキテダテナリ、怒レルニ、柔ラカナル心ヲ持ツコト、メヅラシキコトワリナリ、又幽玄ノ物マネニ、強キコトワリヲ忘ルベカラズ、コレ一サイ舞ハタラキ、物マネ,アラユルコトニ住セヌコトワリナリ。又身ヲツカフウチニモ,心根アルベシ。身ヲ強ク動カストキハ、足踏ヲヌスムベシ。足ヲ強ク踏ムトキハ、身ヲバシズカニ持ツベシ
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と書かれているが、利休の和歌二首も、この世阿弥のことばと同じ意味である。
- 何にても道具扱うたびごとに 取る手は軽く置く奥手重かれ
- この歌と次の歌も、 意味は同じである。
- 点前には運び点前と棚物点前がある。運び点前は、風炉、釜だけが、最初から据えてあって、 水指、 茶碗、 棗などは、点前にかかる前に運び出し、定めの場所に置く。
この歌も、次の歌も、運び点前の場合と見た方がよい。
- まず水指を運び出すのだが、水指には水が入っており、 重量感があるのだが、それを持ち上げる時、重いからと、力を入れて持つと、客の目からはいかにも重く見える。
客にそのように感じさせないように、軽く持ち上げるようにする。それと逆に、棗や茶碗など持ち上げる時は、軽いからと両手でひょいと持ち上げると、軽いものが、いっそう軽々しく感じられる。軽いものを持つときは、少し重々しく持つ。
- そして道具を置いて、手を離すときは手をすぐ引くのではなく、ゆっくりと手を離す。「置く手重かれ」は、そのことである。
- 何にても置き付けかへる手離れは 恋しき人にわかる々と知れ
- 前の歌では、道具を置いて、手をはなすときは「置く手重かれ」と教えているが、それをさらに「手離れは恋しき人にわかる々としれ」といっている。
- 水指などを取りあげるときは、ごく手軽くとり、置いた手を離すときは、恋しき人に別れを告げるごとく、余情を持たすと、道具はしっかり定座に据わるし、かつ無限の味が生じる。
- 武芸に「残心」という言葉がある。 敵を倒して、すぐ刀を鞘に納めるのではない。 刀を下げたまま、敵を見つめつつ、五、六歩退いて、さて鞘に刀を納める。この心構えを「残心」と称するのだ。
- 茶の湯の点前にも、この残心の心構えが必要なのである。道具の扱いだけではない。茶事が終わり、客を送り出して、さて釜の前に坐り、ひとり茶を立てながら、今日の茶事について反省する、これが茶人の心得と教えられているが、これも恋しき人に別れる気持ちであり、残心でもあるのだ。
- 点前こそ薄茶にあれと聞くものを麁相(そそう)になせし人はあやまり(粗相とおなじ)
- 相伝物だからといって点前をていねいにし、濃茶だから、ていねいに点前をする、というのはあやまりである。
- 点前の巧拙は、運びの平点前の薄茶で、最もよく表れてくるのである。
- 字を書いても同じである。楷書だからていねいに書く、行書だから少々麁相に書くのだ、草書だから最も麁相に書くという理由はない。草書になるほどむつかしいのである。山上宗二は「真の茶は薄茶」といっているほどである。
- 薄茶の点前が、しっかりできないのでは,台子の点前はもちろん濃茶も立てられないはずである。
- 茶道だけではない。何事でも基本が大切である。その基本を麁相にしては、芸の上達は望まれない。
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利休百首
井口海仙著 より
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