利休百首の解説ページ・・・(2)
- 濃茶には点前をすてゝ一筋に 服の加減と息をもらすな
- 濃茶は、まず服加減が第一である。濃茶を服加減よく寝るのには、湯加減と、湯の量が第一である。しかし歌のように「点前を捨てゝ」しまっては、濃茶は煉られない。これは加減よく濃茶を煉ることに専念して、点前の上手下手には、重きをおくなということである。
- では濃茶を煉るには、どんな心得がかんじんか。それは「息をもらすな」である。腹にぐっと力をいれ、呼吸をととのえることが、服加減の良い濃茶を煉る時の心得である。
- 「石州流三百ヶ條註」という古書に、
- 真の茶は薄茶なり。それ故に薄茶は一人一服宛也。点前を専ら静に不略第一に刷る也。台子のときとくと合すべし。濃茶一服を打ち寄り呑ぞ略義也。服加減を重要にして点前は次とする也。
- と書かれているが、この歌は、言葉を三十一字に要約しているのである。
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- 濃茶には湯加減あつく服は尚ほ 泡なきやうにかたまりもなく
- 濃茶は、湯加減が大切なことはいうまでもない。四季の寒い暑いに従い、時に応じ処置するのが、真の茶人、点前上手である。
- 湯加減を説明するのは難しいが、炉の時期の茶事を例にとると、初入りですぐスミで前があり、解析が終る頃には、釜の湯がぐらぐらと煮え音をたてる。中立ちがあり、後入りで濃茶を煉る頃には、それが一応おさまる。この湯加減がよいのである。しかし歌にもあるように、湯加減は、ぬるいより暑いほうがよいのである。
- 「塊」は、俗に言う団子のことで、茶碗に茶を入れる前に、茶碗をよく拭いておくことと、初めの煉り方を十分にすることで救われる。そのためには、一度目に入れる湯の分量が少ないと、煉っているうちに、かたまりができる。二度目の湯は煉った茶を、適当に薄めるためだが、このときに、白い泡があるうちは、煉られた茶と湯がよくとけあっていないのである。
- とにかくに服の加減を覚ゆるは 濃茶たびたび点てゝ能く知れ
- 薄茶を加減よく点てるのも練習であるが、濃茶を加減よく煉るには、さらに練習を積まねばならない。
- 私の知人のある茶人が「濃茶一貫目(約4キログラム)煉ること」を念願において、濃茶点前ばかりしていたが、その茶人は晩年服加減のよい濃茶を煉ってくれた。そのかわりに、点前は何年たっても上達はしなかった。裏千家十四代淡々斎は、正月一ヶ月の間に、家元の初釜や、各地の点初で、何十回となく濃茶を煉られたが、ある年淡々斎が正月一ヶ月間煉った茶の料を通計してみると、約一貫目になった。私の知人が死ぬまで濃茶ばかりを煉った料を、淡たんさいは「一ヶ月の間に、本当にうまく煉れたと思ったのは、二、三度しかない」といっていた。
- もちろんそのときの湯加減などにも関係があるが、それほど練習しなければならないのである。
- よそにては茶を汲みて後茶杓にて 茶碗のふちを心してうて
- 初心者の稽古のときに、茶筅通しを教えたりするのに「そこで こ ち んと音をさせて」などと、つい口にすることがあるが、本当は注意しなければならない。
- それが名物茶碗でなくとも、茶杓に付いた、茶の残りを払うために、茶杓で茶碗の縁を強く打ってはならない。
- 年代を経た茶碗、粉つぎや漆で繕うてある茶碗は、そんなことで粗忽が起きる場合がある。また、細い茶杓だと、強く打つと、節のあたりから折れることもある。そんな事実を、私はいくらも聞いている。
- 恵子のときでも、もちろん注意せねばならないことだが、他人の家で、頼まれて点前をするときには、よほど気をつけねばならない。
- これは茶杓で茶碗の縁を打つときだけの心得ではない。茶筅通しのときも、茶碗を拭くときも、よくよく注意しなくてはならぬことである。
- 中継は胴を横手にかきて取れ 茶杓は直におくものぞかし
- 中継は中次とも書く。薄茶器の一種である。「胴を横手にかきて取れ」は「胴を横手にかけて取れ」という意味である。中次は、蓋が深いから、棗のように、蓋の上から握るようにしてもてないから、胴の横に手をかけて持つのである
- 蓋の上は、棗の蓋のように、丸みがなく、水平になっている。棗の場合は蓋の上に茶杓を置くとき、あらかじめ櫂先を向うへ少し下げてから、手元の方をおろす。こうしないと、茶杓が棗の蓋の上で、クルクルまわることがある。
- しかし中次の場合は、蓋の上が平面になっているから、茶杓を置くときも、ただちにまっすぐに置くのである。
- いいかえると、棗の蓋は、丸みがあるから、茶杓も丸みをもたして置き、中次は、水平になっているから、茶杓も水平に置く、ということになるのである。
- 棗には蓋半月に手をかけて 茶杓を円く置くとこそしれ
- 前の歌と同じようなことであるが、この方は棗の扱い方である。
- 棗は足利義政時代に、京都妙覚寺法界門の傍に住んでいた羽田五郎が始めたといわれる。形は果実の棗から生れたという。棗は胴のおよそ三分の二の位置で蓋と身が分れるもの、すなわち上方に合口のあるものをいう。前の歌にある中次は、円筒形で、胴の中間に合口があるものをいうのである。
- 蓋を半月に持つというのは、棗の蓋を上から?むようにもつと、棗の蓋の表面と、指との間に、三日月形の空間が出来る。
- それを半月といったのである。このように持つと、見た目が美しい。初心の人はよくわし?みにするが、武骨に見えて美しさがない。
- 茶杓を円く置くというのは、茶杓の櫂先を、まず蓋の向うにおいて、しだいに前の方へおろすという意味である。蓋の上が円味をおびているから、このように置くと、茶杓が安定するし、見た目も、美しく感じるのである。
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- 薄茶器は、真塗やため塗の無地ばかりではない。蒔絵時のもの、堆朱、堆黒、鎌倉彫のように彫物のものや、詩中次のように、中次の蓋から胴にかけて、漢詩が書いてあるものや、和歌のちらし書き蒔絵のように、蓋から胴にかけて、文字のあるものがある。
- こんな薄茶器を用いるときは、蓋と胴との出会い口を、よく見定めておいて、蒔絵が合わなかったり、文字が、蓋と胴とで連絡がとれなかったりしないように注意する。
- 又、こうしたものには、文字也模様に表裏があるから、それもよく見定めて、拝見に出す場合など、模様や文字の裏面が、客の方に向かないようにする。
- これは、点前をする亭主だけの心得ではない。客になった者も、よく表裏を見定めてから拝見するようにしなければならない。
- 茶入には、いろいろの形がある。
- 中国から渡来した唐物茶入れには、文琳、茄子、文茄、尻帳、丸壺、鶴首、瓢箪などと、種類が多い。しかし一番普遍的な形は、肩衝である。
- 肩衝は、胴と口との間の肩にあたるところが、肩を張ったようになった形である。
- この茶入れを持つときは、中次を持つときのように、胴の横から持つようにする。
- これも初心の人に多いが、よく底に小指をかけて持つ人があるが、これは指を底にまわさないほうがよい。
- また棗の蓋を、上からわしづかみに持つと、みにくくなるように、しっかり持つつもりで、握りこむように持ってはみぐるしい。
- 手の甲に丸みをつけるように、指先だけに力を入れるようにもつと、美しく見える。
- 前の歌の逆である。
- 肩衝の茶入れは、だいたい丈が高いから、中次のように、横から持つだけでよいのだが、文琳は中国産のりんごのことで丸く小ぶりであり、茄子は、下ですこしふくらんだ茄子のような形をしている。丸壺は名称のように丸い壺である。大海は、その形が、がいして小さく、平べったくて、口が大きい。
- このように、がいして小形の茶入れを持つときは、肩衝のように、横からは持ちにくいし、それでは、見た形が悪い。それで、そんな茶入れを持つときは、小指を底にかけたほうがよいのである。見た形もよいし、またその方が安全である。
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- 大海をあしらふ時は大指を 肩にかけるぞ習いなりける
- 大海の茶入れは色々な形の茶入れの中でも、ずいぶんひらべったく、たけがひくいので、横から持ったままでは、蓋が扱いにくい。それで、茶入れを左手で上から半月に持ち、茶杓を持った右手であしらって、茶入れを左の手のひらにのせる。点前の術語で言えば、平棗扱いにするのであるが、そのとき、左手の大指、すなわち親指だけを、他の指からはなして、茶入れの肩にかけ、蓋をあけ、茶をすくうのである。
- このようにすれば、茶入れが手のひらの上に安定する。
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