あとりえ60
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利休百首の解説ページ ・・(4)
- 客になり風炉の其うち見る時に 灰崩れなん きづかひをせよ
- 風炉の灰の仕方を習った人には、覚えがあることだと思うが、なかなか面倒なものである。それだけに、風炉の灰に関した茶人の逸話も多い。
- 宗旦の長男宗拙は風炉の灰の名人だったと伝えられる。父の宗旦と不和であった頃に、大徳寺の三玄院にかくまわれていたとき、宗旦が突然訪れてきて、座敷の隅に据えられた風炉の灰を見て「宗拙がおじゃましておりますな」といった。それほど宗拙の風炉の灰には、特徴があったのである。
- 亭主が、折角辛苦して仕上げた灰を、荒っぽく歩かれたり、立居されたりすると、灰に裂れ目ができたりする。その反対に、少々のことでは、灰が乱れないような灰の仕方は、真実の灰ではない。死んだ灰である。灰の仕方は、かたく押さえつけてするのではない。
- 客は、亭主の辛苦を察して、風炉を拝見する時など、静かに拝見するようにしなければならない。
- 客になり底取るならばいつにても 囲炉裡の角を崩し尽くすな
- これは炉の場合である。
- 茶事で、客に炭所望などをされても、客が底取りで、炉中の灰を取り上げるということはしないが、ただの茶会に招かれ行った場合、ちょうど人数が揃っているから、7事式の廻り炭でもしよう、ということになると、札の取り方で、客が亭主の役目をしなければならないことになる。こうした場合での注意で炉中の灰を、底取りで上げるとき、よく注意して、炉中の四隅の角を崩さないようにしなければならない。
- 説明するまでもないが、炉中の灰は、平面に入れてあるのではなく、四隅の角は、灰をかきあげてある。
- これは、炉中を美しく見せる景色にもなっているが、空気の流通がよいように考えられたことである。したがって、四隅の灰が、かきあげられていないと、火のおこりが悪いということになる。
- 墨蹟をかける時にはたくぼくを 末座の方へ大方はひけ
- 墨蹟とは、大燈国師とか一休禅師などの高僧が、禅語を書いた掛物のことであるが、この墨蹟を床に掛けるときの心得である。たくぼくは”琢木”と書くが、掛物の巻緒のことである。
- この啄木を下座の方へ引いておくのが約束になっているが、お茶の心得のない家では、この啄木を中央にしたまま掛けてあるのをよく見かける。
- 啄木は、先に説明したように、掛物を巻いておく時に必要であるが、床に掛けた時には必要がないのだから、上座の方や中央にあってはおかしい。
- 必ず末座の方へ引いておく。
- 啄木 掛け物の巻緒のことを琢木という。巻緒は掛緒と同じ平ひもで造ってあるが、この平紐はもめんまたは絹の、白・黒・青の色糸を組んでよってある。その色合いが啄木鳥の羽色に似ているので、この称がある。
- ・・・・・「茶道用語集」 井口海仙 編より・・・
- 絵の物を掛る時にはたくぼくを 印ある方へ引きおくもよし
- 絵の掛物といっても、茶室に掛けるものは、極彩色の絵ではない。主として水墨画のようなものであるが、そうした掛け物を掛ける時は、啄木を筆者の印が押してある方へ引いてもよいという意味である。
- 筆者の署名なり、花押、印などは、だいたい向って左にあるものだが絵の構図などで、その反対のところに押されたり、署名されたりしていることもある。
- そんな場合、床の上座、下座にかかわらず、署名なり、印の押してある方へ、啄木を引いてもよい、というのである。
- 啄木というのは、前項でも書いたように、掛け物の巻緒のことであるが、その緒に点々と斑紋がある。それが啄木鳥の羽の斑紋に似ているので、名づけられたのである。
- 絵掛けものひだり右向きむかふむき 使ふも床の勝手にぞよる
- 風景画なども、向かって左の方に絵の重点があるもの、その反対に右のほうに重点が置かれているもの、これを左または右向きと解してもよいが、この歌では人物画として考えてみるべきである。
- 茶室の床に掛ける人物画といえば、高僧や茶人の画像が多い。高僧の画像は、頂相(ちんぞう)と称するのだが、おおかたは正面向きであるから問題はない。茶人の画像、たとえば長谷川等伯筆の利休居士の画像はやや左向きに書かれているが、正面向きとしたほうがよい。このように、だいたい上座の方に重点を置くように書かれている。
- この歌の解釈は、向かって左向きは、その人物の背が、勝手付けになるように掛け得る構造の床に、右向きに近いものは、その逆の構造の床に掛けるようにせよ、ということである。
- 掛物の釘打つならば大輪より 九分下げて打て釘も九分なり
- 大輪(おおわ)というのは、数寄屋建築の用語で、天井の回り縁のことである。
- 掛け物を掛けるために、床の壁に打つ釘を、掛物釘というのだが、その釘は金属製ではなく、竹を削ってつくる。白竹の一面だけ皮を残し、釘のように削るので、その寸法、長さ、厚みなども定められている。
- その竹釘を打つ場所は、床天井の回り縁から約二七ミリ(九分)下の壁に打つのである。普通の建築だと、その回り縁に、直接釘を打ったり、回り縁の下に板を張って、底へ打ったりするが、茶室の場合は壁に打つのである。
- 竹釘の川の面を上にして、ややななめ上向きに打つ。
- 壁から外面に出た釘の長さは、やはり約二七ミリ(九分)である。
- 床にまた和歌の類をば掛るなら 外に歌書をば荘らぬと知れ
- 広間の茶室だと、とこのほかに、書院や脇床がついている場合がある。その書院に何もかざらないと寂しいというので「古今集」のような和歌の本や巻物を置くことがあるが、床に歌切や懐紙などの掛物を掛ける場合、和歌が重複することになるから置かないほうがよい。
- 茶道では道具の取り合わせなど、なるべく重複をさけるようにするから、これはあたりまえのことであるが、近頃は道具自慢の茶会が多く、こんな約束も平気で破られている。
- しかし書院になにもかざっていけない、というのではない。和歌本や巻物のかわりに料紙、硯箱をかざるもよいし、掛物が歌切や懐紙のときは「徒然草」や「源氏物語絵巻」というような、床の掛物と重複しないものならかざってもよい。
- 外題あるものを余所にて見るときは 先づ外題をば見せて披けよ
- 外題というのは、巻物や、掛け物のしめ緒の上部にあたるところに「OO図OO筆」とか「OO筆一行」などの文字を、金銀紙、その他に記して貼ってあるのをいう。なかには、金銀紙、などを貼らずに、掛物に直接記したものもある。
- これは、いちいち掛け物を開いてみなくても、巻いたまま、誰々筆の何々の画であるとか、一行物であるとかが、わかるように考えられたのである。
- 外題は、その所持者が記す場合が多いが、その所持者が有名な茶人であったりすると、後世外題そのものも、貴重なものになる。
- 床に掛けられた場合は、外題は見えないが、軸飾りといって由緒ある掛け物、天皇の書かれたものなどを床に掛けるときは、特別な作法がある。まず掛物を巻いたまま、床にかざってあるのだが客はその外題をよく拝見してから、亭主に掛けてもらうのである。
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- 釜は、その形やその他の理由から、いろいろな名称がある。
- たとえば利休の好みの釜だけでも、尻張釜、丸釜、阿弥陀堂、蒲団釜、透木釜、繰口丸釜、切合丸釜、万代屋釜、国師釜、鶴首釜、針屋釜、雲龍釜、東陽坊釜、大講堂釜、桐釜などと、いろいろあるのだが、各家元代々宗匠の好み釜を加えると、ずいぶん数が多い。
- しかし何々釜と名は多いが、総称すると冠す鑵子(かんす)というのだと教えているのである。
- 鑵子とは、釜の古称で「「太平記」」「「下学集」」などには、釜のことを鑵子と書いている。江戸時代の「「物類稱呼」」には、関西では羽のある真形(しんなり)形式の釜を鑵子といい、関東では手取り釜のように弦のある釜を鑵子というと書かれているが、いずれにしても、釜の古い称し方で、現代ではあまり使用しない。
- 冬の釜囲炉裏縁より六七分 高くすゑるぞ習ひなりける
- 囲炉裏というのは、茶室の炉のことである。その炉に懸ける鎌の高さであるが、TVや映画の茶室の場面で、釜が炉縁より、とび出したように高く懸けてあるのを、ときどき見ることがある。
- 釜が高いと、釜の口に懸けた柄杓の柄の先が、畳についていなければならないのである。
- この歌は、その注意が詠まれているのだ。
- 囲炉裏縁というのは、炉縁のことで、その表面から、釜の口が約二センチ(六、七分)ほど高くなるように懸ける。それが習いであるというのである。
- このくらいの高さに釜を懸けると、柄杓を釜の口に懸けたとき、柄杓の柄のさきが畳について、柄と畳との間に、指一本入るぐらいの空間ができるから、柄杓を取るときも、楽に取れる。
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利休百首
利休百首
井口海仙著 より
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